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「さあ、一つ拝見しませう」
その次にふり向いたとき、果はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしているやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。
これがこの小さな字である。
が、一方盛子もまさに自分の幼時を知つていると云ふ見知らぬ人から声をかけられた時のやうに、目をぱちくりさせ、好意のまじつた当惑と云つたものを感じていた。
徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。
だが、道楽息子にはちがひなかつたが、それだけでは済まないものがあつた。正文はそのはつきりと理解できないこみ入つた或る物が、単にあらゆるものを切りすててもなほ残る、あの単純な愛情だといふことには気がつかなかつたが、漠然とそれに惹かれた。
日々は平凡に単調に過ぎて行つた。
裏口から家の中へ入らうとした時、房一はそこの小路つづきの先きの方に彼の帰りを待ち構へていたらしい様子で突立つたまゝこちらを眺めている二人の男に気づいた。
男はじろじろと房一を見ていた。
「はゝ、知つているな。よし、よし何もいやしない」
何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついていた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつていた。
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つていた。